学生時代はいろんなバイトをしたけれど、家庭教師と塾講師だけはやらなかった。なんかこう、「オレに教わるなよ」って感じで(笑)。
一番金になったのは、マクドナルドの夜間清掃(「メンテさん」という)。当時は、バイト(クルーという。人生“狂う”人もたくさん:笑)には主婦はほとんどいなくて、明らかに出会いの場だったんだけど、今とあまり変わらない(はず)の容姿だった僕は、「閉店間際に出てくる掃除のオジさん」というポジションだった。
店舗が地下街だったんで、3時間弱で掃除を終わらせて12時にアガり(独立店舗の場合はオールナイトで警備員を兼ねる)。通常はオートバイで行ってたけれど、日付が変わってから飲みにいくことも多かった。多い月は、25日くらい掃除していた。
おかげで、いまだに掃除は得意で、下手に得意だから家中の掃除が回ってくる。
あと面白かったのは、劇団のウルトラマンショーに出るバイト。F16星人という悪役で、最初は子供を脅したりしているが、ウルトラマンジョーが助けに出てきて、爆竹が鳴る中をやられて逃げていく、という。田舎のデパートほど、子供に受けたのが面白かった。
ペンキ屋のバイトは命がけだった。
公団住宅のベランダの金属の柵を塗り替えるために、古い塗装をはがしてペーパーをかけるのだが、家の中に入れてもらえないので、6階建てのベランダに外から登っていって作業する。
目の前が壁のうちは良いのだが、端まで行って、急に視界が開けたときがマジでコワイ。
友だちを数人確保して、全員を車で拾っていって、バイト代のほかにガソリン代などをもらっていた。
内装工事屋さんのバイトは、途中までできたビルに内装の石膏ボード(吉野石膏のタイガーボード)を搬入する仕事。エレベーターなどができていないので、1枚10キロ弱のサブロクのボードを8枚くらい持って5階とかまで階段で運んでいく。おかげで当時は、背筋が300キロ近くあった。
ちょっとしたコツなんだけど、ボードの扱いは素人とちょっとやったことある人では全然違うのであった。
ガラス屋のバイトは手が傷だらけになった。
ガラス棚の部品を作る作業で、指定のサイズに切ったガラス板の切り口を研磨して棚板にする、という。ガラス切りでパリンと切っただけの切りっぱなしのガラス板を研磨機に載せるときに、手が切れる。その手で、夜の清掃バイトに行くと、洗剤がしみてまた痛い。
朝日新聞の世論調査のバイトはいろいろ勉強になった。
アンケートして回る調査員もやったけれど、事務局もやった。自治体の選管を回って、選挙人名簿から調査対象をランダムにピックアップしてくるなんて仕事もあった。
アンケートへの協力を拒んでいる人に電話して、説明して説得し、ということを繰り返すうちに、回収率がだんだん上がっていくのは、なかなか面白い経験だった。
世論調査のバイト代をあてにして何かを買うことを「ヨ・ローン」と呼んでいた。
夏は、中央競馬がくるので、競馬場の売店でバイトした。パドック脇の売店が本拠で、場内の売店のビールや氷を運んでいた。大瓶4ケースとか運ぶのだが、空き瓶の方が飲み残しがあるので、見た目より重い、とか、オロナミンCの瓶は馬がパドックにいないときに割る、とか。ま、その頃から、バイト代は馬券代だった。
気象観測のバイトもした。
真冬の夜中に観測用のバルーン(カイツーンという名前だった)を上げて研究員の指示に従ってコントロールする、という。寒くて風の強い日は大変だった。「痛恨、カイツーン」と命名した。
冬のバイトといえば、交通量調査も忘れられない。真冬の繁華街で、ウォークマン聞きつつ、寒いのでウイスキーのポケット瓶を飲みながら、、、。マイナス10度とかだから全然酔わないんだけど、交代でビルのトイレ(暖かい)などに行くと、我然、回ってきて真っ赤な顔に、、、。
冬は、地元デパートのスポーツ用品売り場で、スキーのビンディングを付けるバイトもした。これも、熟練を要する(特にクロカンは)。
主だったメーカーの板とビンディングはすべて熟知していたが、バイトが忙しくて、北国だったのにスキーはほとんどせず。
ある年、自治体が補助金で生活保護世帯にスキー券(ま、地元メーカーのスキー用具一式との引換券)を配ったのだが、受け取りにくる人の反応が面白かった。
ま、実はやくざ系が多くて、こんなスキーしかないのか、とか。もちろん、本当に生活に困っていて、喜んでいる人もたくさんいたのではありますが、、、。
フロアにいたデパート社員はアホ(シンナー飲んでるような人。まじで)が多くて、「シンナーはイカンよ。オレなんか飲んでたもん」って説教されてもね(爆)。
で、まあ、一応、4年で卒業したんですが、工学部のメインストリームの授業はまったく面白くなかったので、経済学部や法学部の単位をかき集めて、単位数はぴったりでなんとか卒業。
教授には学部の裏でバイクをいじっているだけの学生、と思われていたようで、こんなやつが研究室に残ったらまずい、ということで、マスター試験には落ちました(ま、メインストリームの科目はぜんぶ放棄してたし)。
卒業後、何年かして挨拶に行ったら、「宴会や合宿の仕切りが君のようにできるひとがいなくって困ってるんですよ」などとほめられてるんだかなんだか分らないことを言われて、複雑な感じだった(笑)。