煙草をやめてずいぶん経つけれど、今でも、ごくたまにパイプ煙草を吸ったり、さらにごくごくたまに紙巻き煙草を1個(ショートホープ1個10本入りのことが多い)買って吸ってみたりする。
ま、パイプの場合、たまに吸うだけだと葉が乾燥してしまっていて、味の方は今ひとつなんだけれど、それでもパイプには紙巻きでは味わえない美味さがあるし、(大して高級なものは持っていないけれど)モノとしてのパイプも素晴らしい。
パイプの吸い方は、最初は上手くいかなくてけっこう大変なんだけれど、一度コツを覚えると、何年かぶりで吸ったりしても案外忘れていないものである。コツってのは、静かな呼吸に合わせて、パイプのボウルから気管の上のほうまでの空気と煙が、一体になってトコロテン式にジワっと動くような感じで吸うこと。その範囲の空気と煙とはけっして派手に吸ったり吐いたりせずに、微妙に往復させしながらトコロテン式のその状態をキープする、という塩梅である。空気が止まっていると煙草が燃えて酸素を使い切ってしまうし、派手に吸ったり吐いたりすると燃え過ぎてしまったりヤニっぽくなったりする。微妙にジワっと燃やすことで、ブレンドされたパイプ煙草の葉が1枚1枚だんだん燃えていくようすを味わえる、ってのが上手く吸えたときの感覚だ。
紙巻きのほうは、指に挟む感覚とか唇に当たる感覚などが、たまに吸うととても新鮮で、特に一服目の最初のほうなど、初めてタバコを吸ったときの感覚が甦ってくる。これは、実は、禁煙の醍醐味なんじゃないか、とさえ思えるもので、普段から吸い続けているとまったく感じられなくなってしまう感覚だし、普段どころか2本目にはもう消えてなくなってしまうとても脆い感覚なのである。
パイプの吸い方なんてのは典型だけれど、何事も練習しないと上手くいかない、ってのも煙草である。例えば、風が強い日に外で煙草に火をつける。あるいは、マッチを片手で擦るなんてのは、何度か火傷したりした挙句にできるようになるわけで、これはもう練習のたまもである。
文学者とか小説家ってのはヘビースモーカーという印象が強いけれど、多くの文士が煙草について書いたアンソロジー(「たばこの本棚 開高健・編集」)を最近読んだ。「あー、そうそう、そうなんだよね」という部分多々ありで楽しく読んだのだけれど、煙草を吸わない人には全く分からない話ばかり、なのかも知れない。まさにこの20年で、煙草の社会的ポジションは激変したということを改めて感じさせられたのだった。
そのうち、茶道みたいな極める対象として喫煙(「煙道」じゃ普通すぎるなぁ)というものが残っていくのかもしれん、などとかなり本気で考えてしまったくらい。
まずは、ジッポーのライターにオイルを浸み込ませて、オイルの香りとジッポーの無骨な外観を愛でながら心を落ち着かせる。おもむろに、ショートホープの底のほうのセロファンにツメを立てて、中身をそっくり引き抜いて天地をひっくり返して再度箱に入れ、それから銀紙をちょっと破ってようやく1本取り出す、とかね(こうすると、開封用の赤いセロファンの帯をそのままにできる:笑)。
パイプの場合は、パイプを磨いたり、あまつさえ自分で木の根っこから作ったり、吸うときは吸うときで、ボウルに葉を詰めてからコンパニオンで上から押し付けながら2,3回に分けて万遍なく火をつける、なんて儀式が必要だ。葉巻にしても、先端をカットしたりする必要があるし、そのためのギロチン型のツールまである。
開高健に言わせれば、「パイプは哲人の夜の虚具」であり独りで楽しむもの、これに対して紙巻煙草(シガレット)は「昼の実用品」であって人間関係において何らかの役割を果たすことも多い、ということである。よく考えると1本15円とかするわけだけれど、適当に咥えて100円ライターで火を点け、半分も吸ったら灰皿に押し付ける、なんてことを何回も繰り返してもあまり抵抗がないわけで、これではナントカ道に昇華させるにはちょっと無理がある、とも思われる。
同じく、開高健の言に「暗闇で吸う煙草は美味くない」というのがある。煙を目で追うことこそが本質だ、という話である。ちょっとおこがましいけれど、「急いで吸う煙草は不味い」ってのもあると思う。一生懸命吸うと燃えすぎるし、水分が十分に気化せずにヤニっぽくなってしまう。パイプに限らず、紙巻でも、美味しく吸いたいのなら、ゆっくり吸うのが基本だと思う。
なんてことを書いているのも、花粉症のおかげでノドが調子悪くて、煙草は懐かしいんだけれど、ぜんぜん吸う気になれないからなんですね。
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