なんだか、食いモンの話ばかりになってますが、最近読んだ「食」をテーマにした本2冊。
■ラーメン屋の行列を横目にまぼろしの味を求めて歩く(勝見洋一 著)勝見氏が言うところの、プロの料理と素人料理の違いは「ダマシ」の有無である、というのは素晴らしい喝破だと思います。プロの料理人ってのは、高い素材ばかり使っているわけではないんですね。調理した上で適当な価格で出せること、最上ではなくてもそこそこの質で安定して入手できること、などの方を重視しているわけで、その制約条件の中で何か「ダマシ」、言い換えると「演出」や「技」を加えるから、普通の素材が金の取れる美味い料理に生まれ変わる。
いくら良い材料を買ってきて、レシピどおりに手を抜かずにまじめに作っても、家で作って食べるのではたいして美味くないもの。これは、熟練のダマシがないからなんですね。何といいますか、トマトソースなんだけど日本人なら隠し味に醤油、みたいなものでしょうか?(笑)
小泉先生の場合は、C級にこそ真髄がある、ということを次のような例で説得してくれています(笑)。
納豆を1パック食べるときに、飯に半分かけて食い、さらに飯をお代わりして残りの半分を食う。そして最後に、納豆のパックにご飯を一口分くらい放り込んで、パックの内側にこびりついた納豆のねばねばをご飯粒にからめとって食べると、ご飯とねばねばの微妙な味わい、美味さが一番よく分かる。ご飯二膳で納豆を食うのがA級とB級とすれば、最後のはC級。これこそが味わいの真髄である。
なかなか説得力があります(笑)。
冒頭の2冊の後に読んでいるのは、ちょっと別格、別路線のこれ。
■「最後の晩餐」(開高健 著)
食日記に終始している世の中に喝を入れたい、という著者の意欲(しかも、昭和40年くらいのこと)はさすがですが、なかなか知識がないと分からない話も多数で、自分がインテリではないことをこれでもかと思い知らされます。
もう一冊。これは、ずいぶん前に古本屋で下記を見つけて手元に手元に置いてある本ですが、昭和30年代にして既に「しにせ」だった店のガイドブックです。こんな本を見て「失われたもの」に想いを馳せるのはなかなかオツなものです(ま、10年前のdancyuを読むのも似たような面はありますが)。
いまだに営業している店も多数ですが、さすがに「しにせ」という位置づけでのレポートからさらに50年経過しているわけで、失われた感(というか既に終わった感)がさらに強まっている店もけっこうありますね(笑)。ま、僕が東京に来た頃には、田舎に居た頃に池波正太郎の本なんか読んで「東京に行ったらぜひ食ってみたい」と思っていたような店は、「既に終わっていたのも多数だった」ということでもあるわけですね。
冒頭の勝見氏は最後に「味覚は記憶」と指摘していますが、これ、まったく同感で、味が分かるかどうかなんて自らの体験以外に拠所はないわけです。体験を繰り返すからこそ、モノの味がだんだん分かってくる。
体験だからこそ、同じ店に行って同じものを食べても、前回とは違ったりする。店も何かが変わっているかもしれないし、自分もまた前回とは異なる状況にあるはずなのです。仕事の質が落ちたり、口が奢ったり、その店に至ったコンテクストも違うし、そもそも前回の記憶があるというだけで条件がぜんぜん違います。
なんというか、こう「アドリブは二度とつかまえられない」(エリック・ドルフィーの言葉)というか、「光速で宇宙旅行して帰ってきたら、時間がずれていて知らない人ばかりに」(相対性理論)というか、、、ま、大げさに言うとそんな感じ、まさに一期一会なわけですね(笑)。
ま、そういうこともあって、カメラがデジカメになって以降は、食べたものの写真を撮るようにしていますが、パソコンのファイルをさかのぼって見ていくと、たかだか数年のことなのに、既に閉店・廃業してしまった店や二度と味わえないメニュー多数なのに驚かされます。
もっと驚くのは、その一皿の写真を見ただけで、料理の味はもとより、店の様子、誰と食べたか、そのときは他に何を食べたか、なんてことが、ありありと浮かんでくる、ということですね。まさに「味覚は記憶」を実感させられます。そういうわけで、いつどこで食っても全部同じ写真になってしまうチェーン店などで300円とかで晩飯を食っているようでは、人生の記憶がないのと一緒で大変にイカンな、と思うわけです。
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