あけましておめでとうございます。ばたばたしているうちに、もう6日です。なんだか、年末年始にやらなきゃならんことがたくさんあって、だらだら仕事モードを引きずっていたんですが、、、。
そんな状況ではあったのですが、年末年始に1泊で伊豆の方に行くことになったので、小田原あたりで昼飯を食おうかと思案していたところ、小田原の担々麺の名店「静蓮」が店主の健康上の理由で12月26日に閉店してしまったことを知りました。
過去、偶然に見つけて、昼営業の終了間際に入って、一度だけ食べたんだけれど、その時の味が忘れられずにいたお店。また行こう、また行こう、と思っているうちに、もう二度と食べられなくなってしまいました。まさに、一期一会。「食」の本質を表現するのにこれ以上の言葉はないのではないか、と痛感させられましたね。
あろうことか、この店の担々麺に限って、写真さえ撮っていない(苦笑)。
もちろん、この一期一会な感覚にはいろいろな側面があって、例えば、若い頃に感激したものが年を取るとさほどには感じられなくなる、なんてのはよくあることだし、その理由も、店がダメになったってだけではなく、口がおごった、あるいは荒れた、などいろいろ。店はあるんだけど、かつての感激はもう味わえない、という意味での「一期一会」。
次に、店の主人が歳を取ってしまったなどの理由で引退あるいは廃業、なんてケースもよくある話。先の小田原の例もそうだし、代替わりして店は続いているけれど、跡継ぎが調子悪くてまったく変わってしまった、なんてこともある。
もう一つは、客の側の健康状態や年齢、転居などによって行けなくなってしまうという場合。30代の頃には、こんなことは考えず、単純に「また来よう!」なんて思ってただけだったんだけれど、最近は、「もしかしたらこれを食うのは今回が人生最後かもしれない」なんて思うことがけっこうあるんだよね(笑)。
久しぶりに入った店に幻滅して、もう来なくて良いな、と思わされることも多々。これ、味もさることながら、店のオペレーションだったり、スタッフの問題だったり、気持ちよく飯が食えなくなる理由にはいろいろある。
飲食店が味をはじめとしたもろもろのクオリティを長く維持して継続していくことは、並大抵のことではない(僕は居酒屋の息子だからある程度分かるつもりなんだけど)ので、今ここで味わった感激をもう一回、なんてことは、自分のコンディションも含めて、なかなかに難しいことではないか、「一期一会」であることのほうが普通であると思ってその時を大事にしないとダメなんじゃないか、ってことだよなぁ、、、。
いい歳になり、それなりに仕事もしていれば、人生に残されたまともな晩飯の回数なんてたかが知れている。その中で、何を食べていくのかってことを考えると、まさに「一期一会」なのが食、もっと言えば、その時に自分が何を食いたいかをどこまで真剣に考えられるかが問われている、と大げさに考えてしまうわけですね。
一方で、「リピートできないような店は、存在しないのも同じ」ということも言える訳で、リピート可能な状況にあったところで、実際にはなかなか行けるものではない、ということをいつも意識していたい、ということかな?
いやー、返す返すも、小田原の静蓮は残念です。何かの用で行ったときに、駅ビルのパク森カレー(これはこれで美味い。レトルトがまた泣ける:笑)を食ったんだけれど、その時に駅の近くなんだから足を延ばしていれば、と悔やんでももう遅い、、、。
コメント