活動期間が第1期から第4期で示されるといえば、真っ先に浮かんでくるのは、ディープパープル(再結成後まで入れると7.5期を経て9期まであるらしい:苦笑)なんだけれど、久しぶりにそれを想起させたのが、上野公園の国立博物館で開催中の東洲斎写楽の展覧会であった。
写楽のほとんどの作品(4点だけは資料のみ)を一気に見られるだけでなく、同時代のライバルや写楽のフォロワーの作品、版画なので同じ原版でもプリントが違うと色や背景などが違ったりする実例、なども含めて展示されていて見応え十分な展覧会だった。
展覧会のポスター等にも使われている背景が黒っぽい上半身だけの作品は、「大首絵(おおくびえ)」と呼ばれるもので、これは第一期が中心。江戸の歌舞伎役者の今で言うところの「ブロマイド」であり、江戸の名プロデューサーの企画で28枚を一度に世に出して鮮烈なデビューを飾ったのだという。
第二期、第三期と進むにつれ、題材は歌舞伎役者ではあるものの、ダイナミックな大首絵は少なくなり、全身を描いた「細版(ほそはん)」が中心になる。それとともに、第一期に見られたような確信に満ちた表現から、無難な構図とディテールの正確さを重視するようになっていく。
写楽の活動期間は約11カ月という短い期間であり、作風がその間に大人しくなっていく様子がとてもよく伝わってきた。写楽は、11カ月の間に約150点の作品を残している。歌舞伎や相撲などの芸能に取材したものがほとんどで、報道写真の代わりというような側面もあって、当時の文化というものが伝わってくる。その意味では、細版の全身像とディテールにも大きな価値があると思う。
写楽は一人ではないのではないか、などという説もあるようだが、一人の才能ある人間であったとすれば、今回、その時代のライバルたちの作品なども併せて見られたこともあって、正しいかどうかは分からないが次のようなこともあったのではないかと感じさせられた。
華々しいデビューで人気が出たのも束の間、アートの方向に走る写楽の作品と保守的で無難なライバルの作品とが、世の中で大衆に比較される。大衆の人気などというものは、先端的であるよりは、保守的なものに寄っていくのが普通。その結果、作風も大衆に寄せざるを得なくなる。さらに、大衆寄りの作品をたくさん作らなければならない状況において、だんだん才能の勢いが殺がれていく。アートとしての価値は後世が認めたけれど、リアルタイムには11カ月で姿を消してしまった。
現代においてもまったく同じことが、いろいろなところで発生しているわけで、才能があり、しかも路線変更を小器用にこなしてしまったりすると、便利に使われて疲弊していくなんてことになりますね。
というように、ま、なかなかにいろいろと考えさせられる展覧会でありました。レンブラントも、同じく上野公園の西洋美術館で観られるんだけれど、さすがにハシゴするとメモリーが足りなくなりそうなんで、また今度にして、久しぶりに蓮玉庵の鳥南蛮蕎麦を食べて帰ってきた。
コメント