先日、東京に出張して、昼飯に良心的な寿司屋で「ランチのちらし」を食った。
もう30年以上経つのに、いまだに馴染めないものの一つに関東の「ちらし」がある。就職で関東に来て、写真のようなのをちらしと呼ぶことを知った。「握り」はまだしも、ちらしってのがピンとこない。
生まれ育った地方では、ちらしってのはいわゆる「五目ちらし」というか、魚介は使わないのが普通だった。酢飯の上に、かんぴょう、鯛でんぶ(ピンクの魚そぼろ。当時の北海道のことだから、タラで作った模造品だったかも)、甘辛く煮た干しシイタケやニンジン、錦糸卵、さやえんどう、レンコンなどを散らして、最後にもみ海苔か刻み海苔、いり胡麻を振る、という構成だった。あくまで、運動会の昼飯的なポジションであって、いなり寿司なんかと並んでけっしてご馳走って感じはしないものだった。
なお、握りについては、「生(なま)寿司」と呼ぶのが普通だった。単に寿司といったら、いなり寿司や生魚が入っていないちらし寿司であって、生の魚を握ったものは特に生寿司と呼ぶのであった。というわけでいまだに、生寿司だと嬉しいが、ちらしはまったくときめかない。ホッケとかタラとかサケとか、生では食えない安い魚ばかり売っているような貧困地域だったからだろうと思っている。
「生(なま)ちらし」などというサイコロに切った刺身だのイクラ(多くの場合、生臭いだけw)だのなんだのをちらしに乗せてちょっと贅沢な感じにしたちらし寿司は、後になって出てきたモノであって、ちらしってのはもっと日常の食いモンだった。生ちらしってのを初めて知った時は、子供心に「その手があったか! 単なるちらしだと金払う気にならんよね」と思った(ただし、ちらし寿司ってのは、傷みにくいのが良いところなんで、生ちらしになった瞬間に、運動会の弁当候補からは外れる)。
これまで、昼時に寿司屋といえば握り(1.5人前とか、微妙に貧乏くさいオーダーだったりするがw)だったけれど、最近はちらしも食うようになった。ま、良心的な寿司屋のちらしには、海鮮丼(飯が白飯)などというものに濃厚に感じられる「お為ごかしなインチキくささ、結果として見た目が食いにくいほど華美」ってことがない。あと、握りだとシャリとネタのバランスが好みではない、という場合もけっこうある。
寿司ってのは地方によっていろいろなので、関西ではバッテラとかバラなんちゃらもあるで、といった感じなんでしょうが、ま、そっちはよう知らんです。
それにしても、「五目ちらし」でググるとクックパッドなどのレシピサイトが大量にヒットするんだけれど、材料を見るとかなり省略されたり、いかにも間に合わせの変な材料を使っていたりでなかなかに貧乏くさい感じだ。この手のボトムアップ系レシピの最大の問題は、ピント外れな工夫や素材の入れ替え、代替などを通じて、生まれ育ち(その家庭の味、でもあれど)や貧乏くささ(これは貧乏とはまったくの別物で本当に嫌なものだ)が出てしまうことだと思う。そして、それに微塵も気付かずに堂々としているのが、世の中の食に対する姿勢の劣化を感じさせる。