その点では、文句なしにナンバー・ワンだと思う。
R.I.P.
WirelessWire Newsに連載したカレーの話が本になりました。
連載は、こちら。
「インドカレーは自分で作れ インド人シェフ直伝のシンプルスパイス使い」という平凡社新書です。
2019年12月16日発売です。
2019/12/04 カテゴリー: Books, Current Affairs, Food and Drink, Life | 個別ページ | コメント (0)
土井善晴さんの「一汁一菜でよいという提案」を読んでいて、真っ先に浮かんできたのがインドカレーでした。インドカレーの味付けは、発酵食品の味噌ではなくて「複数のスパイス」と野菜(トマト、タマネギ、ニンニク、ショウガなど)が普通ではあれど、メインとなる素材の味わいの生かし方など、日常の食事に対する考え方には、和食との共通点がとても多いと思いました。
写真は、サラッとした汁気の多いキーマカレー(鶏挽肉のカレー)にナスとピーマンなどを追加した具だくさんのカレーと、ドライに仕上げたアルジラ(クミンの効いたジャガイモのカレー)で「一汁一菜」を構成。これ、キーマカレーの鶏挽肉以外の材料は全部野菜で、いわゆる「ルー」の類は一切使っていません。
それにご飯とパクチー(パクチーは、カレーの仕上げに混ぜても良いのですが、トッピング的に混ぜながらフレッシュなのを食べるのが好きです)でお腹スッキリの食事です。
こういうのは、自分の好みの辛さにできるし、マジで美味いし、バランスも良いと思います(自画自賛なれどw)。
他にも一汁一菜的なインドカレーを想定すると、例えば「具だくさんの野菜カレーにアチャール(いわばインドの漬物)」、「素材の味わいを大事にしたチキンや豆のサラッとしたカレーに、ドライなサブジやタンドールで焼いた鶏や羊」などなど、まさに一汁一菜的なのが、気張らないインドカレーだと思います(「ハレ」のターリーなんかは別ですよ)。
以前、初めてアルジラ(その時はさらっとしたソース多めのカレーにしましたが)を作ったときに、「あー、これ、ジャガイモとタマネギの味噌汁と同じ考え方だな」と思いましたが、「一汁一菜」にも相通じるとは、これはちょっとした発見でした。
というような偉そうなことを書いてしまったのも、このお店「インド家庭料理 ラニ」のカレーを体験し、シェフのメヘラ・ハリオムさんから多くのことを学んだから、ということは間違いありません。私のインド料理の師匠です。知らない世界を教えていただいて、本当に感謝しています。
※蛇足
で、今さらなのですが、写真にある「少し油を吸わせてカレーに入れたナス」と「パクチー」ってのは、素晴らしい相性ですねぇ、、、。和食ではパクチーは使いませんが、焼きナスに削り節の代わりに「パクチー盛り盛り」にして、ごま油と醤油を垂らす、なんてのも美味いかもしれません。
2017/08/07 カテゴリー: Books, Current Affairs, Food and Drink | 個別ページ | コメント (0)
「ノスタルジー 1972」(講談社)を読んだ。
1972年をテーマにした6人の作家による6編のアンソロジーなんだが、とても良い企画だと思った。
御殿場の本屋をぶらぶらしていて偶然見つけた。ま、ネットでは出会わなかったかもしれない。
1972年というのは、
・沖縄返還
・横井さん帰還
・札幌オリンピック
・あさま山荘
・川端康成が自殺
・日本赤軍乱射事件
・田中角栄内閣
・日中国交正常化
・パンダ来日
・北陸トンネル列車火災事故
・日航機ハイジャック
・有吉佐和子 「恍惚の人」
などなどいろいろあったのだが、これらが巧みに6編の物語に織り込まれている。
笠谷、今野、青地の70m級金銀銅も、北海道出身の作家・朝倉かすみさんが書いている。個人的にはこの「空中楼閣」(のラスト)が一番ウケたw オレは当時、札幌で小学生。真駒内の選手村に行って、「バッジ交換しよう!」などと外人(選手かスタッフか不明なれど)と初めて話をしたのを覚えている。ゴムタイヤの地下鉄(ホームがゴムくさい)ができたのが前年で、学校に券売機とか自動改札機の使い方などのビデオが回ってきた。
それにしても、重松清さんが(いつものことだが)上手すぎる。
1972年に録音されたレコードで良く聴いたのといえば、
・マシンヘッド(ディープパープル)
・トゥールーズストリート(ドゥビー・ブラザーズ)
・イート・ア・ピーチ(オールマン・ブラザース・バンド)
・ハーヴェスト(ニール・ヤング)
・ガンボ(ドクター・ジョン)
・リターン・トゥ・フォーエバー(チック・コリア)
・シカゴ V(シカゴ)
・ジス・イズ・ホンダ(本田竹広トリオ)
あたりがある。
T.Rexとかデヴィッド・ボウイなんかも、この年に有名なアルバムがあるけれど、オレはあまり聴かなかった。
ギルバート・オサリバンのアローン・アゲインもこの年だ。
ま、アタマの中、この頃のままだわww
映画だと、
・ゴッドファーザー
・ラストタンゴ・イン・パリ
・ゲッタウェイ
などなどであって、マーロン・ブランド、大活躍というかいろいろ大変だったのが1972年。
そうか、宮の森シャンツェでの金銀銅から45年経ったのか、、、。
「京都ぎらい」
この本売れているそうですが、抜群でした。
1章があまりに鮮やかですね。
某所で著者をよくご存じの方が「普段いうてはることをそのまま、本にしはった」とコメントくださったのですが、本当にそんな印象の本でした。
ここで書かれている「洛中の人が洛外を差別する」ってのは、京都に限った話でもない(東京の千葉、埼玉とか、世田谷の練馬、北とか。札幌でさえなんとなく、的なw)のではあれど、京都は特にいやらしい感じがしますね。
ま、オレみたいな田舎モンには、京都は敷居が高いし、何よりメンドクサくてイカンです。
豆腐を湯船に入れて金をとる、なんてのは、呆れるやら感心するやらだけれど、南北朝などの歴史に照らして自分の思いを語る、ってのは「道民」には不可能なことですww
同志社大学(小樽と敦賀・舞鶴のフェリーがあるからか、同志社と立命館はオレが高校生の頃から札幌で受験できた)に行っていたら、どういう人生になっていたかと思うと興味深いな、とは思いましたね。
いや、しかし、オレは「俊雅」なんて名前なんですが、けっこう恥ずかしいですww
サポセンとかで「トシマサは、ニンベンの俊にミヤビです」などと言ってるわけで、、、w
そんなに本は読まないほうだと思うのだけど、最近、立て続けに良い本に出会ったのでメモ。
まず、読み進むのが惜しい、読み終わるのが残念で仕方ない、という本が2冊。
■競馬漂流記(高橋源一郎)
■絶景鉄道 地図の旅(今尾恵介)
ま、どっちも好きなジャンルなんだけれど、まずは競馬。
高橋源一郎が当時仕事らしい仕事はこれだけだった、という状況での渾身のエッセイだね。
ちょうど、自分の競馬歴とも重なる時期で、出てくる馬の名前もレースも良く知っているし、競馬の楽しさに浸れる本だった。
マカオで岡部が大活躍するところなんか、素晴らしい。
出張で行ったニューヨークでベルモント競馬場に行ったのを思い出したよ。
晩秋なのにタンクトップで馬の番号だけ(馬名は覚えられないw)を叫んでいたオッサンとかねw
競馬ってのは、世界(とりあえず、競馬をやってるような国だけどね)の共通言語だと思う。
もう一方の鉄道のほうは、2万5000分1の地図で線路やその周辺環境を読み取るというもので、ここはなんでこうなっているのか、とか、昔はこうだったけどいまはこう、などといったことがこれでもかと説明されていて、まったく飽きることがない。
北海道の話も多々で、行ったことがある、乗ったことがあるという路線もいくつも出てくる。
掲載されている写真も地図も素晴らしい。
と、読み終えるのが惜しいと思ってはいても、短期記憶がアレな状況になりつつあるので、何回読んでも楽しいはずだ(笑)。
もう1冊、素晴らしく共感したのが、下記。
移民や祖国を追われたなどの事情でオーストラリアで暮らす様々な民族の市井の人々の触れ合いを描いた小説なんだけれど、とても今日的なテーマと感性だと思ったね。
こういうマインドや感覚、そこに流れる世界観のようなものをまったく平易な文章でこんなふうに表現した小説は、なかなかないと思う。
主人公が女性ってのも良いのかもしれない。
どこに行っても、淡々と生きていく能力は、明らかに女性のほうがすぐれていると思うんだよね(個人的な考えだけど)。
吉本ばななの小説なんかにもそれは感じる。
いわゆる小説では、(大してたくさんは読んでないんだけど)ここ数年で一番共感したね。
たいてい、押しつけがましい世界観とか、小手先の文章術とか、エピソードやストーリーで底の浅さが見えてしまったりなどで、「こんな話に何時間も付き合ってられないよな」と思ってしまうのが小説にはけっこう多いのだなw
以上の3冊なんだけれど、これ全部SNSで友人、知人から教えてもらった本なんだよね。
本屋に行くなんてことはほとんどなくなったので、何を読むかはソーシャルネットワーク次第、ってことなんだな。
SNSで知って、そのままアマゾンで買ってしまう(こないだ、梱包ミスだかでまったく違う本が入ってて呆れたがw 珍しいね)。
本屋は、たまに行くと、どこに何があるか分からんし、売れてる本(なかなか下品だったりするw)ばかり目立ってて、あんまり居心地も良くないんだよね。
あ、とか何とか言ってたら、今年初投稿ではないか!
皆様、本年もよろしくお願いいたします。
2013/10/05 カテゴリー: Books, Current Affairs | 個別ページ | コメント (0)
伊丹十三を「ヨーロッパ退屈日記」→「女たちよ!」→「再び女たちよ!」と読み、塩野七生を「ローマからの手紙」→「男たちへ」→「再び男たちへ」と読んでみたが、これはなんというか、とにかく全部若いうちに読め、できれば成人する前に、遅くても20代半ばくらいまでに読んでおきたい、と思ったね。
編集者の仕業かもしれんが(その割にはロングタームだけどw)、この二人のこの3冊ずつはかなりの相似形だ。
ヨーロッパ退屈日記は、若き日の俳優伊丹十三のロンドンでの「役待ち」の生活をなんとも言えないスノッブさで若さゆえに衒いなく書きまくっている。ローマからの手紙は、ローマに単身渡った若い女性のけっこう力みも感じられる書き振りが痛快だ。
「女たちよ!」と「男たちへ」には、今でもまったく変わらない普遍性のあるテーマがこれでもかと書き連ねてある。著者二人の文章も完全に確立した感じがする。
最後の2冊は、ちょっと方向性は分かれるのだけれど、二度目の結婚後でなんとなく楽しげな伊丹十三と、約20年前に今の私と同年代だった頃の塩野七生の考えていること、このそれぞれが手に取るように分かる。20年前ってホントに今と何も変わっていない。失われた20年とは良く言ったものだ。
どの本も、読者がこの年(著者がこれらの本を書いた当時よりも年上になってしまったw)になれば、分かっていることもあれば、大変に共感することもあるのだけれど、「嘆かわしい事とは何ぞや?」(こうあるべき、ではなく、あえてそう言いたい)ということについて明確に答えてくれる文章の数々は、何年経ってもまったく色褪せるということがない。
あえて2冊選ぶなら、「ヨーロッパ退屈日記」と「再び男たちへ」かな?
それにしても、マキャヴェッリ(1469-1527年)ってのは大したもんだね。ヨーロッパ退屈日記どころか、この頃から世の中の本質は何も変わっていない、ってことだ。これは読まなきゃならんな。
最後に塩野七生さん、お誕生日おめでとうございます。
東京優駿(日本ダービー)も終わり、なんとなく気が抜けそうな状況ではありますが、2013年5月といえば、ついうっかりしておりました。
私にとって人生の師の一人である伊丹十三氏(勝手に師と思って、著書を読んだり映画を見たりしているだけですがw)。彼が生きていれば、5月15日で80歳なのでありました。いわゆる「生誕80年」ですね。64歳で自ら命を絶った(ということになっているw)彼が、80歳の我が身をどう思うかは知る由もありませんが、三浦雄一郎氏のエベレスト登頂などを見るにつけ、そうかこの世代であったのか、もし生きていたらどれだけの仕事をしたことか、と思っている訳です。
ちなみに今年80歳になる同世代の有名人は、例えば石原慎太郎、五木寛之、永六輔など。79歳だと、大橋巨泉、黒柳徹子、宍戸錠などなど。テレビや映画、小説などの文化を作ってきた方々がたくさんいます(ま、便利なサイトがあるもんです。本当はちゃんとウラを取るべきではあれどねw)。
ま、そういうこともあって、「ヨーロッパ退屈日記」であるとか「女たちよ!」であるとかそのほかであるとかを読んでいるわけですが、やはりさすがは師だけのことはあります。電車にもかかわらず吹き出してしまうこと多々。一人で読んでいると腹を抱えてしまいます。1960年代後半の話(私がまだ小学生だった頃)がまったく色褪せていないのは、世の中の本質はそう簡単には変わらないってことなんでしょう。
日本人ってのは、舶来モノの本質を理解せずに取り入れ、極端だの詰まらない工夫だのを突き詰め、独自の変な世界を作り出すことに長けています(ま、明治維新とかねw)。例えば最近ネットで話題の「エクセルを表計算ではなく清書用に使い倒す」(セルを正方形のマス目だらけにして自在なフォーマットで見た目だけ“美しい”文書を作ってしまいデータの再利用が困難になるという本末転倒)みたいな話ですね。
これなんか、伊丹十三の「本質を理解してパクれ!」の一言でお終いなわけです。
ヨーロッパ退屈日記の文庫本の解説に、これも師の一人と思っている山口瞳氏がこんなことを書いています。
「この本は、まだ世俗に汚れていない中学生に読んでもらいたい。彼の生きている様は、まっとうな男がまっとうに生きて行くということについての悲惨な実験を見ているようだ」。
30代半ばにして、あれだけ世の中を茶化し、かつ「ひどく貧乏でもないくせに大変に貧乏臭い中産階級」をバカにしきった成熟。そして何より、それを書き残してくれたことに、改めて感謝なのであります。
(一人もいないかもしれないけど)これを見た中学生諸君! 「ヨーロッパ退屈日記」をぜひ読んでください。高校生になってからでは、もう遅いのですよ(笑)
今回の年末年始は、曜日の加減と仕事の都合でけっこうのんびりできて休息になったけれど、テレビはつまらんので本を読んだ。
大晦日から読み始めて、私にしては珍しく2冊続けて一気読み(基本的にジョギングと読書は苦役なのですw)。あっという間に年が明けてしまった。
「サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて」(田口ランディ)
3.11以降の筆者の周りの出来事や活動、心の葛藤などを淡々と綴った本。
水俣や歴史的な虐殺等の「暴力」の痕跡を訪ね歩いてきた自身の経験と感覚が、3.11でどう動いたかが書かれている。
その中で、数年前から取り組んできた原子力について、「それが暴力だからテーマとしている」というスタンスは明快。
年代が近い、あるいは同じように田舎から都会に移り住んだ経験がある、などにもよるかもしれないが、共感できるところが多々あった。
「その土地でなければ生きていけない、という感覚は理解できない」というのがその典型。
歴史のある土地だからこそなのだろうけれど、私のように「2代遡れば内地のあぶれ者」である北海道で育った人間にとっては、「ご先祖様に申し訳ない」という嘆き自体が良く分からなかった(北海道の開拓の苦労は知らないわけではないが、それがご先祖様には結びつかないのです)のだけれど、それは自分に限らないということが分かったことで、ちょっとだけ楽になれた気がする。
吉本ばななの小説なんかもそうなんだけれど、淡々と生きていくということの良さというか、それ以外にないでしょ、ということなんだよね。
もう1冊は、福島第一原発の事故対応のドキュメント。
「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」(門田隆将)
福島第一原発所長の吉田氏を中心とした事故対応メンバーの原発事故での苛烈な経験を、関係者へのインタビューを元に書き起こした本。
まさに、淡々と生きるとは対極の世界。
吉田氏をはじめとした東電の現場の方々、自衛隊の隊員たちに感謝と尊敬の念を新たにした。
我々がいま、原発事故の影響はありつつも淡々と生きていけるのは、文字通り命をかけて事故収束に取り組んだこの人たちのおかげなのだ。徒や疎かに「命がけで」(ま、選挙とかね)なんて言えないと思わされる体験が、手にとるように伝わってきた。
現場で実際に何が起こり、プロの判断でどう対処していたか、ということの詳細は、リアルタイムには分からないし、表に出てくるまでには時間がかかる。それは、本という紙媒体を作っているから遅いのではない。ネットなら早いということは、まったくない。
この本で良く分かったことは、東電に批判は多々あるが、現場はプロだったということ。
「官邸から、海水注入を中止しろ、と指示が来たが、その場では了解したと言ったが、実際にはそのまま注入を続けるように段取りをしておいた。とにかく冷やし続ける以外に方法はないのだから」という判断と対応には頭が下がる。我々素人は、福島第一のことしか考えていないが、彼らは、「福島が暴走すれば、周辺一帯が立ち入り禁止区域となり、福島第二や東海村までもが無人になり暴走する。その結果は言うまでもない」ということを意識していた。
吉田氏は2011年の末に食道がんの手術を受け療養中のところ、2012年の夏に脳内出血で倒れ、いまだに闘病中だという。
現場の責任者として引き受けたものの大きさを考えると、簡単に「ストレス」などという安易な言葉は使いたくないが、想像するに余りある。回復をお祈りするだけである。
2013/01/03 カテゴリー: Books, Current Affairs, Life | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)