米国の作家、ロバート・B・パーカーの「私立探偵スペンサー・シリーズ」をご存知の方も多いと思う。主人公のスペンサーは、ボストンの私立探偵。腕っ節も強いが、料理も上手い。ビールやウイスキーの銘柄にも一家言ある。不良少年を海辺のコテージで更生させたかと思えば、恋人のスーザンと些細なことで延々と議論するような理屈っぽい一面もある。ま、翻訳によるところも大きいとは思うが、米国人とは思えないようなところのある探偵なのだ。
初めて出張でボストンに行った時、なんともいえない既視感に襲われたが、間違いなく、この探偵小説を読んだり、それが映画化されたものを観ていたからだと思った。そういえば、「スペンサーの料理」なんて本もあった。
ボストンには、過去2回行った。時期は12月中旬と2月初旬。真冬のボストンはかなり寒いが、北国育ちなのでその点でも懐かしい感覚があった。耳たぶが切れるような張りつめた寒さ、息を吸うと鼻毛が凍りつく寒さは、東京ではまず味わえないもので、これがなかなか爽快であった。
初めての街で美味いものに出会うと嬉しくなるものだが、その時は生のハマグリだった。カキも有名だが、それにも増して美味かったのがハマグリだった。メニューには「clam on half shell」という名称で載っている。貝殻の上のハマグリにホースラディッシュをちょっと付けて食べる。ハマグリの身は、カキに比べるとあっさりしているが、海の滋味がじんわりと感じられるものである。わさびほどにはツンと来ないホースラディッシュが絶妙のアクセントになる。
注文した時に驚かされたのは、「1ダース? それとも半ダースでいいか?」と訊かれたことだ。ハマグリは日本では生では食べないから生食には不安もあったし、旅先だし仕事もあるので、腹を壊してはまずい。そう考えて、とりあえず半ダース頼んでみた。ところが、あまりに新鮮で美味いのであっという間に食べてしまい、もう半ダース追加した。食べてみると相当に新鮮なことがよく分かったし、これだけ寒いんだから「ま、大丈夫だろう」と判断した。日本のハマグリとは、ちょっと種類が違うのかもしれない。
ハマグリと言えば「クラムチャウダー」も有名である。ボストンの空港の軽食コーナーなどでも、クラッカーを砕いたのを入れて食べるこの濃厚なスープは定番メニューだ。ボストン、ニューヨーク、ワシントンとだんだん南下しながら、それぞれの地でクラムチャウダーを試したが、ボストンが一番美味かった(出張自体はクラムチャウダーではなくIT関連の取材が目的だった。念のため)。
で、ウイスキーの話である。
冒頭で触れた探偵のスペンサーには、黒人の相棒がいる。相棒と言っても、いつも行動を共にしているわけではなくて、“ここ一番”で頼りになる存在、という設定である。ホークというその相棒が愛飲しているのが、アイラモルトの「ラフロイグ」なのである。
シングルモルトは、今でこそ誰でも知っているし、いろいろなところで飲めるようになったが、広く流通し始めたのはこの10年くらいのことである。ラフロイグは、それ以前からシングルモルトとして流通していた数少ない銘柄の一つである。そして、初めてラフロイグという名前を目にしたのが、十数年前にこの探偵小説を読んだ時だったのだ。それは、ホークがホテルのバーでこれを注文するシーンだった。
ボストンは、米国の都市の中では最も歴史のある街である。出張の際に宿泊したホテルの近くには、ガレージにサーブやボルボといったちょっとスノッブなヨーロッパ車が停めてあるような、小洒落た家が建ち並ぶ坂道があったりして、歴史とともに人種や生活水準ということを否応なく意識させられる側面もある街なのだ。
そんな街で、ピンクのワイシャツとスーツを着たりして、多少ダーティなこともやってのける黒人のホークが、ホテルのバーでラフロイグ(英国のチャールズ皇太子ご愛飲というのも有名)を注文するわけである。スペンサーの依頼人(確か女性だった)の驚く顔が目に浮かぶようだし、こういう場合に、表情一つ変えないようであれば、それはそれで、その人物の背景が見えてくるようにも思う。
先にちょっと書いたが、この探偵小説は映画化されている。俳優の名前は忘れてしまったが、スペンサーのイメージはぴったりだったが、ホーク役はちょっとイメージと違ったように記憶している。本を読んで勝手に、「でかくて筋骨隆々のプロレスラーのようなタイプ」と思っていたら、「細面で鋭い感じのボクサーのようなタイプ」だった。確かに、いろいろ考えてその行動に意味を持たせるようなタイプならこっちかも知れない、と思った。
しばらくボストンには行っていないが、今度行ったら、間違いなくカキとハマグリを両方頼んで、ラフロイグ垂らして食べてみたいと思う。カキはラフロイグ、ハマグリはホースラディッシュ、という結論になるような気がするが、前回行ったときには、残念なことにモルトを垂らす食べ方は知らなかったのだ。
※この連載は2004年から2005年にかけて、nikkeibp.jpサイトに掲載したもののアーカイブです。
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