この素晴らしいところにぜひまた来よう、と思っていながら、ちょっと疎遠になってしまっているうちに、何かの事情でそこはなくなって、もう二度と行けなくなってしまう、、、。
そんな場所やお店、宿なんかが誰にも一つや二つはあるものだ。
「あと15分くらいで古川インターだな、、、。やっぱり横浜から直行だとけっこう遠い、、、」。
夜明けとともに横浜を出て、東北自動車道をひたすら北上してきた僕は、仙台を過ぎた頃になってさすがに少し疲れを感じていた。朝ゆっくり出て、途中で一泊という手もなくはいのだが、このときは約450キロを一気に走ることにしたのだった。
マニュアルミッションの4ドアセダンを一人で運転しながら、首筋を2、3回捻ってボキボキ鳴らす。まあ、この凝った首筋も今夜寝る頃にはスッキリしているはずだ、、、。
古川インターを降りてからは、宮城、岩手、秋田の県境にある栗駒山麓を目指す。温湯(ぬるゆ)を過ぎたら、右に折れて川沿いに上ってゆくと赤い橋が見えてくる。橋のたもとに数台分の駐車スペースがあって、宿まではここにクルマを置いて歩いて20分くらいだ。
クルマを停めて少しの荷物を持ち、橋を渡って急な斜面を登って行く。以前にオフロードバイクで来たときには、特に禁止の表示もなかったので、バイクで登って行こうとしたのだが、途中の斜面に曲がりきれないキツいカーブがあって、バイクで登ることは断念した。たとえ登れたとしても帰りが無理だな、と判断したのだった。
急坂を登り切ったところで弾んだ息を整える。ここからはほぼ平坦な道でもうあと数分だ。
ほどなく、川に面した赤い屋根の一軒宿が見えてきた。山好きには知られたランプの宿、湯の倉温泉(ゆのくらおんせん)「湯栄館」(ゆえいかん)。温泉宿は無数にあるけれど、「よかった、またここに来ることができて」と心から思える数少ない宿の一つである。
「お世話になりまーす、予約しているものですが~」
「おお、よく来たね。あれ? 何度か来てる顔だね? 確かバイクじゃなかったっけ? 今回はクルマできたの?」
「そうなんですよ。何回かバイクで来ましたけど今回はクルマです」
「大雨で増水して露天風呂が水没したときだったかね?」
「いやー、あのときは、土砂降りの中、東京からバイクで走ってきたんでずぶぬれだったんですよね。二日目に晴れてやっと露天に入れた。二泊でないとダメでしたね。今回も二泊でお願いします」
「まぁ、今回はいい天気だね」
「夜は星がよく見えそうなんで楽しみですよ」
なんて話をしながら宿帳に記帳して、別棟の客室に案内される。
部屋は川に面した風通しの良い2階。目の前を流れる川の音が心地よい。
ランプの宿というだけあって、畳の6畳間には天井にランプが吊るしてあるだけでコンセントなどはいっさいない。
二泊すると分かるけれど、ランプのホヤというガラス部分が透明で光が明るいのは、ご主人が毎日磨いているから。一晩使うと煤でガラスが真っ黒になるから、毎日、客が出発したら全ての客室の「ホヤ磨き」をして回る。
ランプは、芯の出し入れで明るさを調節するのだけれど、夜中に暗くしようとして芯を下げすぎると、消えてしまうから要注意。そうなると真っ暗。ここの夜は本当に真っ暗なのだ。まだタバコを吸っていた頃だったので、手探りでジッポのオイルライターを点けて、その明かりでランプに火をつけ直した、なんてこともあった。
さて、それでは、まずは日の高いうちにゆっくり露天風呂に入って、それからビールを飲むとしよう。
ここは川に面した露天風呂が素晴らしい。増水するとすぐに水没するくらいで、本当に川に接している。のぼせたら川に飛び込むのがここでの夏の流儀。この川がまた清流なんてものじゃないほど水が澄んでいる。上流側は2メートルあるかないかの滝になっていて、下流のほうには岩があって、ちょうど風呂の前が直径30メートル、深さ50センチくらいの砂地のプールのようになっている。潜るとイワナが何尾も走っているのがよく見える。
露天風呂を堪能したら、ご主人にビールを2本ほど出してもらって部屋に戻る。ビールは川の水で冷やしてある。渓流の水は十分冷たくてビールの冷え具合に不足は感じない。
毎日のように飲んでいるビールだけれど、こんなに美味いのは年に何回あるだろう、というほどの美味いビールを飲んでいると、日が落ちてきた頃に夕飯が運ばれてくる。質素だけど心づくしの夕飯。山菜やイワナなんかと一緒に鳥のモモ焼きが1本付いてくるのがここの夕飯の不思議な特徴である。
ランプの火がチロチロと揺れるのを見ながら、川の音をBGMにスキットルに入れて持参したウイスキーをちびちびと飲む。チェイサーは湧き水。グラスは、部屋に備えつけの茶碗。この間に合わせな感じが旅の醍醐味だ。
電気がないのでテレビもない。川の音ってのは不思議とうるさくないもので、旅の疲れも手伝って、さほど酔ってもいないのにあっけなくぐっすりと眠ってしまう。ちょっともったいないんだけれど、これがこの宿での正しい夜の過ごし方なのだと思う。
翌日は、ほとんどの宿泊客は山登りに行くのだが、僕は本を読んだり酒を飲んだりしながら、風呂に入ってはウトウトし、川に入ってはまた風呂に浸かり、なんて調子で丸一日をのんびり過ごす。こうしていると、体の濁りがどんどん抜けて行くような気がしてくるものだ。
二泊した三日目の朝には、出るものが山菜の名残を色濃くとどめるようになってくる。そうなると、都会の雑踏が頭をよぎったりするようになるのだから不思議なものだ。「さあ、また仕事だな」という気になってくる。
この温泉宿、そもそもは、東京の会社に就職して最初のゴールデンウイークに奥鬼怒温泉郷(日光沢、手白沢、加仁湯、八丁の湯の4湯でここはここでまた素晴らしい)に行ったのだが、そのときに宿で知り合った人に教えてもらったのだった。「あそこはいいよ」と温泉のベテランに言われたら、確かめに行かなきゃね(笑)。
あの露天風呂にもう一度行こう、今度はいつ行こうかな、と思っているうちに、それは二度とかなわない夢となってしまった。
2008年6月14日、岩手・宮城内陸地震によってできた土砂ダムでせき止められた目の前の川が、宿を完全に水没させてしまったのだ。ご主人が無事だったのがせめてもの救いだった。再開のメドはまだ立っていないという。
山の温泉の一つの理想といえる宿、それが湯の倉温泉・湯栄館だった。
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